罪刑法定主義の感覚に欠ける

メンヘラを救う方法に関する一考察や、法律に関する話を中心に、様々な話題を提供します。

法律事務所への就職と学歴

1 はじめに

 法曹界に身を置く私が,単なる実体験をベースに「法律事務所への就職と学歴」というテーマでつらつらと感じていることを書いてみようと思う。

 ただし,私は「匿名」でブログを行うことに意義を感じているため,私自身が法曹界へ身を置く者であることの証明をするつもりはありませんし,何期であるかも申しません。ですから,「匿名を良いことに無知な人がテキトーなことほざいているわ」くらいの気持ちで読んでいただけると嬉しいです。

 

2 いわゆる五大法律事務所への就職

 就職先として一定の人気があると思われる五大法律事務所への就職において学歴は重要であるか。(自分で調べるのは面倒くさいので)ジュリナビさんの「2019年5大法律事務所のパートナートラックー3ー」という記事を引用すると,

https://www.jurinavi.com/market/jimusho/kenkyuu/?id=230

 少なくともパートナーレベルではやはり高学歴が多いことが分かる。五大法律事務所の就職において学歴が優位に働くのは私の体感的にも感じるところではあるし,実際ある程度学歴は尊重されているのだろう。もっとも,これも実際に調べていないので間違っている可能性も大いにあるが,西村あさひ法律事務所とTMI法律事務所の新人弁護士は,いわゆる学部がマーチレベルの人も一定数いる(相対的に他の事務所より多い)と私は認識している。繰り返しますが,間違っているかもしれません。

 

3 その他の事務所への就職

 しかし,いくら五大法律事務所が一定程度人気で,採用数が非常に多いとしても,過半数の人たちには関係のないことであろう。以下では一般的な「就活」について述べることとする。

 さて,以下は全くの私見であり,客観的データに基づくものでもないことを繰り返し付言しておく。

 結論を述べれば,正直,この業界の就職において学歴は結構大事だと私は思っている。確かに,近時は「就職難」は解決しているように見え,修習が終わる段階で「就職先がない」という人は多分ほとんどいないように思われる。そういう意味では,学歴が「結構大事」というのは少々言いすぎな気もする。もっとも,私の修習時の体験に照らして言えば,就職先が決まるのに時間がかかっていた人たちが軒並み,この業界の中では「珍しい」学歴の人が多かった,というのが私の正直な感想である。

 今は五大法律事務所が採用をどんどん拡大させていることもあり,大手企業法務系の事務所(及びいわゆる「新興系」の大手事務所)の内定を持って修習に臨む人は多い。
 他方,修習中に就職活動をする人たちのターゲットは,五大法律事務所を中心とした「数多く採用をする事務所」以外の中小規模の事務所ということになり,このあたりの事務所は採用数が少ない(そもそも毎年必ず採用するわけではない)ことから,就職活動の競争はやはり激しい。(五大法律事務所が,少なくとも学部3年で予備試験に合格していれば大抵オファーを出してくれることとは対照的である。学部4年予備試験合格だとオファーがもらえない人もいる…はず。)

 その上,この業界は高学歴の人が多い。特に今,採用担当となっている弁護士の多くはいわゆる「旧司法試験組」であり,司法試験が今よりも狭き門だったこともあり,尚更高学歴の人が多い(と思う)。そのような採用担当は,こう考えてしまうのではないだろうか。

 採用担当である自分も,他の事務所のメンバーも高学歴。

 修習生の多くも高学歴だから,来年になればもっと優秀な人が応募してくれるかもしれない。

 別に今年,必ず新人を取らないといけないというわけでもないし・・

 まぁ別にこの人に内定出さなくてもいいか・・

 と思われやすい状況下で,珍しい学歴の者が内定を勝ち取るのは難易度が高いのではないだろうか。溢れ出る人間的魅力であったり,司法試験が好成績であることだったり,その他諸々があって「この人を取りたい!」と思われないと,少なくとも簡単には就職できないように思われる。

 なお,これは全部私の客観的根拠に基づかない想像である。

 

4 「学歴」より大事なもの

 ここまで学歴を中心に述べてきたが,実際には,就職活動においては学歴より大切な要素があるとも私は思っている。

 実際,高学歴でも就職に困っている人はいた。

 結局は広い意味での「コミュニケーション能力」が大切なのだろう。修習生は司法試験に合格している以上,ある程度の優秀さがあることは就職活動において前提となっている。ゆえに,学歴が高いことが特段有利というわけでもないはずである(「不利にならない」という程度であろう。)。

 法律事務所への就職もあくまで「民間」の「就職活動」である以上,巷で言われる「就職活動において大事なこと」と同様,一定の社会常識やら,コミュニケーション能力やらを身に着け,「人に好かれること」が何より大切なはずである。

 申し訳ないが,若くて高学歴であるのに就職活動に苦労していた人たちは往々にして「空気が読めない」人間であったと私は思っている。

 

死刑廃止論を主張してみる

1 はじめに

 私は死刑廃止論者である。ただ、死刑廃止論の評判はすこぶる悪い。この日本において、死刑廃止を主張する者は「左翼」であり「人でなし」である、と評されることが多い。しかし、それでも私は死刑廃止が正当だと考えるため、可能な限り説得的に死刑廃止論を展開していきたい。

 もし読んでくださる方がいれば、批判のコメントを頂戴できれば幸いである。

2 死刑廃止論の積極的理由付け

(1) 冤罪被害者の被る不利益の大きさ

  刑事裁判は人間が行う手続きである以上、誤判は避けられない。現に、死刑確定後再審無罪となっている例が、戦後の日本では4件存在している。

 死刑冤罪は、許されざる不正義である。失われた命は二度と戻ってこない。

 この点を主張すると、「懲役刑で冤罪となった場合、失われた時間は二度と戻ってこない。冤罪を理由にすれば全ての刑罰を廃止することにつながる。」との反論がある。

 しかし、私は、冤罪被害者の被る不利益の大きさに着目すべきだと考えている。すなわち、日本における死刑執行を念頭に置いた場合、死刑執行は事前に告知がされないため、死刑冤罪の被害者は毎日「今日死ぬかもしれない」という恐怖に怯えながら生活することになる。この苦しみの大きさは計り知れない。他方、懲役刑での冤罪の場合、少なくとも「今日命が奪われるかもしれない」という苦しみを味わうことはない。この点で、死刑と懲役刑は決定的に異なると考えている。冤罪被害者により大きな不利益を与える死刑は廃止することが望ましい。

(2) 「人間の尊厳」の破壊

 死刑の存在は、「この世に不要な命が存在する」ことを正面から認めることになる。相模原の障碍者施設における殺人事件を批判するならば、死刑も同様に批判しなければならないのではないだろうか。

 同事件における被告人の主張はこうである。「障碍者は周囲に不幸をもたらす存在であり、人間とはいえないから殺しても構わない」。

 この意見は倫理(学)的に不当である、と私は考えている。具体的には、「人間は、人間であることそれ自体で価値があるのであり、人間の存在それ自体の価値(人間の尊厳)は絶対的な価値である。したがって、たとえ周囲に不幸をもたらしたり、生産性がなかったとしても、人間を殺害することは、上記絶対的価値を破壊するものであるから不当である。」と考えている。

 死刑も同様である。死刑囚も人間であることに変わりはない。人間を殺害することは、いかなる理由でも正当化されないのではないだろうか。私は、同事件の被告人の主張に反対しつつ、死刑に賛同する理論を見い出すことができない。

(3) 死刑に「固有の」犯罪抑止効果がないこと

 死刑に犯罪抑止効果が認められないことはよく知られている。(この点についての資料は随時加筆していきます。)欧州各国では、死刑に犯罪抑止効果がないことが死刑廃止の大きな理由になっているとされる。

 なお、このような主張をすると、「馬鹿言うな。駐車違反を死刑にしたら誰も駐車違反はしなくなる。死刑に犯罪抑止効果があることは明らか。はい論破。」などと言われることがあるが、これは誤りである。ここで問題にすべきは、死刑に「固有の」犯罪抑止効果があること、すなわち、無期懲役では犯罪抑止ができないが死刑には犯罪抑止効果がある、ということを示さなければならない。換言すれば、「死刑になるなら犯罪をしないけど、無期懲役なら犯罪をしよう」と考える人間がどれだけいるか、が問われている。このような人間の存在を示すことは極めて難しいだろう。

(4) 「拡大自殺」の存在

 むしろ死刑には犯罪を誘発する側面がある。「拡大自殺」とも呼ばれるそうであるが、要するに、「死刑になりたいから大量殺人をする」という者の出現を避けられないことである。このような者は死刑を望むべく、「大量殺人」を目指すため、社会に与える弊害は大きい。

 これに対し、「刑務所に入りたい」という者もいるではないか、という反論があるかもしれないが、「刑務所に入りたい」という者は、労力をかけて殺人をする必要はなく、軽微な犯罪で済ますであろう。

 死刑は犯罪抑止効果がない(少なくとも微妙である)だけでなく、犯罪を誘発しているということは見過ごされてはならないであろう。

3 死刑存置論に対する反論

(1) 世論の存在

 確かに、日本国民の多くは死刑を望んでいる。しかしながら、世論の存在は死刑を存置する理由になるのだろうか。世論がいくら求めようとも、理論的に正当化できない制度ならば国家が率先して廃止するべきである。

(2) 被害者感情の保護

 死刑の廃止は被害者感情を宥和するという重要な刑罰の目的を放棄することになる、という主張がある。

 ①そもそも、刑罰の目的・刑罰の重さに被害者感情が含まれるということには強い疑問がある。刑罰の目的が被害者感情の宥和にあるならば、刑罰は私的制裁に至るであろう。また、当該被害者の遺族の数に応じて刑罰の重さが変わる、ということは、上に述べた「人間の尊厳」に反するものであり、このような考え方は量刑理論上も否定されている。(天涯孤独の人を殺す場合と,存命親族が多い人を殺す場合とで量刑が異なることを正当化することはできない。)

 ②仮に刑罰の目的の一部に被害者感情の宥和が含まれていたとしても、死刑によってこれが果たされるか疑問である。大切な者を奪われた悲しみは、死刑の執行によっても緩和されないのではないだろうか。犯人を許せないという思いは、いつまでも消えることはないであろう。犯人が死刑になるか、無期懲役になるかによって、結果に大きな差があるかは疑問である。

(なお、佐伯仁志『制裁論』に、被害者感情は、その国の最高刑が下されるということによってある程度緩和されるといった旨、記載されていた記憶があるので後日確認したい。)

 ③また、(正直申し上げてこれが匿名ブログであるからこそ言える意見ではあるが)百歩譲って死刑によらなければ被害者感情の宥和が果たされないとして、被害者感情が宥和されないとどのようなデメリットがあるのであろうか。

 犯罪によって命を奪われる者は数知れない(犯罪名でいえば、殺人だけでなく、自動車運転過失致死、傷害致死、業務上過失致死、保護責任者遺棄致死など、たくさんある。)。その中で、少なくとも現時点において、犯人が死刑になるケースは極めて稀である。自動車運転過失致死や業務上過失致死、保護責任者遺棄致死罪で死刑になるケースはないといってよい。それだけ、日本では「犯罪によって命を奪われた者の遺族」は溢れているのである。そうすると、死刑存置論者によれば、日本はまったくもって被害者感情の宥和が果たされていないということになるが、具体的にどのような不利益が生じているのであろうか。

 むしろ、ある事件の犯人が死刑になり、ある事件の犯人は懲役刑にとどまる、といったことで、遺族に苦しみ(命の価値を軽く見られた、というような感覚)が生じることさえ否定できない。

 もちろん、遺族の被害者感情はできる限りケアするべきであるが、先に述べたように、死刑によって彼らの傷が癒されるとは私には思えない。

 ④これは水掛け論になってしまうが、念のため述べると、被害者感情といっても一様ではない。例えば、家族間殺人の場合、遺族が極刑を望まないケースがある。

(3) 人を殺したのだから犯人には人権がない、という議論

 人を殺害した者には人権がない以上、その者を殺しても何ら不正ではない、といった議論がある。

 ①先に述べたように、「人間の尊厳」の保護の見地からすれば、「この世に価値がない、すなわち、人権のない人間が存在する。」という余地を認めるべきではないと考えられる。

 ②「人を殺害すると人権がなくなる」ということに理論的根拠はあるのだろうか。これが「他者に迷惑をかけた者は人権を奪われてもやむを得ない」ということを意味するのならば、先の相模原の事件の被告人を批判できない。

 「他者に迷惑をかけること」と「法律に違反する」ことは違う、といわれるかもしれないが、「法律に違反する」といっても、例えば治安維持法に違反したからといって殺されるのは不当であることを踏まえると、本質的なのは、「倫理的に不当であること」であろう。私は「他者に迷惑をかけること」は「倫理的に不当である」と考えているため、結局は、「人を殺害すると人権がなくなる」という主張は、「他者に迷惑をかける者は人権がない」という議論に聞こえてしまう。

 この点については是非どなたかに理論的正当性をご教示願いたい。

(4) 税金の無駄

 死刑囚を養うのは税金の無駄である、という議論がある。日本においては死刑囚と無期懲役囚のコストを算出したものがないようであるから、あくまで参考程度にアメリカでの議論を紹介するが、アメリカでは「死刑はコストがかかる」と試算されているそうである。

米各州で死刑制度廃止の動き、経費削減のため 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

 確かに、死刑囚は無期懲役囚と異なって働かない上に、個室収容であることから、収容コストがよりかかることが想定できる。税金の無駄という主張は失当ではないだろうか。

(5) 特別予防の観点

 死刑に特別予防効果があることは否定しがたい。つまり、死刑にしてしまえば、再犯防止が確実に図れる、という主張である。

 しかし、現在の無期懲役は事実上終身刑化していることを踏まえると、無期懲役だからといって特に優位に特別予防効果が落ちるということは想定し難い。下記の法務省の資料によれば、平成28年で仮釈放が許可されたのは全無期懲役囚のうちの約0.5%であり、仮釈放が許可された者の平均在所期間は31年9月となっている。仮釈放がいかに狭き門であるかが分かるであろう。

http://www.moj.go.jp/content/001240576.pdf

4 おわりに

 おわりに、と書いたが、願わくば、批判コメントを踏まえ、より深い考察を今後も展開できることを望んでいる。

 

 

AKB48の人気曲の歌詞から考察する「(非モテ)男の理想」

1 はじめに

 AKB48。全盛期は過ぎたのかもしれないが、未だに一定の人気を誇る有名アイドルグループである。彼女らの楽曲の何が男性諸君の心を掴むのか。いつか真剣に考察したいと思っていた。

 私はAKB48の曲をほとんど知らないため、「AKB48 楽曲 人気」などと検索し、出てきた曲の歌詞を取り上げながら、男の心を掴むとはどういうことかを探究していきたい。

2 男性側からの視点で描かれた楽曲

 AKB48の人気楽曲を見ていると、非常に男性側からの視点で描かれた曲が多いことに気付かされる。女性アイドルグループなのだから、女性目線の楽曲を歌うことが多いのだろうと予想していたが、決してそのようなことはなかった。具体例を挙げながら見ていこう。

 (1) Everyday,カチューシャ

   男性側からの一途な片思いが描かれている。「こんな想っているのに」「僕は長い恋愛中」といった言葉をはじめとして、「出会った日から今日までずっと」思いを寄せている男性の姿が描かれている。

  世の中、モテる男ばかりではない(どころかモテる男は少数派であろう。そう信じたい。)のだから、このように「男性側が一方的に思いを寄せる状況」というのは共感を得やすいのだろう。そして、「これだけ一途に思っていればいつかは成就するだろう」という感覚は、アイドルを応援する感覚に近いのかもしれない。まさに、アイドルを応援する男性の共感を得るべくして作成された楽曲といえるだろう。

 (2) ポニーテールとシュシュ

  「今はただの友達」ではあるものの思いを寄せる女子に対して、男子は「好きなんて言えやしないよ」と呟く。(1)に引き続き、思いを寄せるだけで具体的な「告白」には踏み切らない。女子に告白するというシチュエーションを経験したことのない多数のファンに配慮し、やはりここでも、「片思い」という共感を得やすい状況を描き出すにとどまっている。「男性側からの一途な片思い」は一つのキーワードといえそうである。

 もう一つ注目すべきは、女子に対する「変わらないでほしい」という思いである。例えば、(1)では、「永遠(とわ)に変わらないで」と述べられているし、(2)でも、「君は少女のままで」と述べられている。

 大学に入学して変わりゆく女子の姿を見たことのある人は多いであろう。そして、それに失望し、悶々とした思いを抱いた男性諸君も多いのだろう。清純だった(と思われる)あの頃のままでいてほしい、という男性の深層心理をうまく掴んでいるように思われる。

 (3) ヘビーローテーション

  「24時間君だけリクエスト中」という歌詞に象徴されるように、こちらも「男性側からの一途な片思い」が描かれている。

  その上で、「こんな気持ちになれるって僕はついているね」、「たった一度忘れられない恋ができたら満足さ」と述べられていることから、「男性側からの一途な片思いでいいんだよ!」(だからアイドルを応援するのって尊いよね)というメッセージ性を感じてしまうのは、私の性格が悪いからであろうか。

 (4) 小括

  ここまでで見えてきたキーワードは、

 ① 男性側からの一途な片思い

 ② 処女性(清廉性)の肯定

 である。

 

3 「交際する」という視点の欠如

 男性側からの視点で描かれた歌詞を見ていると、徹底して「交際する」という視点が欠如していることが分かる。これは交際経験がないファンに対する配慮なのだろうか?確かに、交際経験のない人に対して、交際することの素晴らしさを説いた楽曲を提供したところで、まったく共感を得られないであろうし、また、そもそも上記(4)②で指摘したとおり、「交際」は「処女性」と背反するものであるから、ご法度とされているのであろう。

 (1) 会いたかった

  「好きならば好きだと言おう」「会いたかった」を連呼する楽曲である。ここでは「好きだと告げること」「会いたいと願うこと」は描かれているものの、「その先」は徹底して排除されている。

 (好きだという気持ちをただ単純に肯定するのは、なんとなく、小学生の恋愛観のようだな、と思ってしまうのは私だけだろうか。)

 (2) 大声ダイヤモンド

  「好きって言葉は最高さ」という言葉で締め括られていることからわかるように、こちらも「好き」という感情を一方的に肯定する楽曲である。小学生の恋愛観のようだ、という感想が一段と強まる。

 (3) 小括

  「男性側からの一途な片思い」を肯定するという視点は一貫しており、その徴憑として、交際するという視点が徹底して排除されていることが挙げられるといえよう。

4 様々なパターンの女子への憧憬

 ここまで述べてきた通り、AKB48の楽曲は男性側の視点で描かれているものが非常に多いものの、一部、女性の視点で描かれているものも存在する。女性の視点で描かれた楽曲は非常に少ないため、分析と呼ぶにはあまりに拙いものであることはご理解いただきたい。

 (1) 恋するフォーチュンクッキー

  まず、こちらは「消極的(思いを秘めることしかできない)」で、「一途」な女子が描かれた楽曲である。歌詞の主体は自らを「地味な花」と表現し、彼女は告白を夢見るものの実際に告白することはできない。まさに「消極的」な女子を表している。

  また、「一途」である。「気づいてくれない」、「私も見て」といった表現からは、女の子が特定の男子に視線を常に投げかけているような場面が想起される。「恥ずかしくて話しかけることもできないけれど、視線だけはいつもアナタだけを見つめている」とでもいうような、典型的な「一途な女子」の姿がそこに映し出されないだろうか。

 ビッチが嫌いな男は多い。ただの一夜の遊びの関係ならビッチで何の問題もないのだろうが、「疑似恋愛」の場であるアイドルにおいて、「ビッチ臭」を醸し出すのはご法度であろう。ステレオタイプであり、現実には異なるのだろうが、一般には、ビッチは積極的で、恋多き女というイメージがある。そこで、これとは反対、すなわち、「消極的(思いを秘めることしかできない)」で、「一途」というイメージを描いているのであろう。

 (2) Teacher Teacher

 他方、こちらの楽曲で描かれた女性はやや積極的である。

 もっとも、「抱きついてもいい?」、「今日だけは……独り占めさせて」といった表現からは、あくまで女性側が「お願いする立場」であり、その意味では消極的な印象も受ける。隠れたところでは実は積極的(男からすれば、それすなわち隠れたところではエロい、という感じなのだろうが)といった、小悪魔的女子は、それはそれで男子は結構好きなのだと思う。

 (3) 小括

  男子の理想に合わせて、いくつかのパターンの女子を描いているのではないか。

 つまり、「奥手な女子」が好きな男子に対しては、(1)のような楽曲を提供し、「処女ビッチ」が好き(女性の皆さんには笑われるだろうが、おそらく、奥手なのだけれどいざとなったらエロいという女子を夢見ている男子は多いように思われる。)な男子に対しては、(2)のような楽曲を提供しているのではないか。

 ともあれ、女性側の視点で描かれている楽曲は非常に少ないため、分析が困難である。

5 まとめ・私見

 2の(4)で述べた視点が非常に重要であるという分析を否定するものは見受けられなかった。つまり、ポイントは、

 ① 男性側からの一途な片思い

 ② 処女性(清廉性)の肯定

 である。

 結局、「一途な片思いを続けていればそれが成就する」ということを信じたいし、また、「ビッチよりは清純な子が好き」という男子は多い。その多数派の心を掴める秋元康はやはり天才なのだろう。

平成30年司法試験短答式試験(刑法)解答速報(私見)

随時加筆していきます。

※第20問の解答を修正しました。申し訳ありません。

第1問 3,5

第2問 5
アが×であることにつき、井田良『講義刑法学・各論』(有斐閣、2016)128頁。同頁は、判例・通説は、「自由の拘束を意識していない被害者との関係でも逮捕・監禁罪は成立すると解している。」としている。

イが×であることにつき、西田典之『刑法各論』(弘文堂、第6版、2012)77頁参照。未成年者略取罪の客体はあくまで「未成年者」である。

ウが×であることにつき、最決平成21年7月13日刑集63巻6号590頁。

第3問 2

Aは旧過失論、Bは新過失論の立場と考えられます。「旧過失論の見地からは、信頼の原則は結果に対する予見可能性のない場合を類型化したもの」である(松原芳博『刑法総論』(日本評論社、第2版、2017)299頁)ため、①はア。

旧過失論に対する批判として、「処罰範囲が広くなり過ぎる」ことが挙げられることにつき、前田雅英『刑法総論講義』(第6版、東京大学出版会、2015)205頁。したがって、②はエ。

新過失論に対する批判として、山口厚『刑法総論』(有斐閣、第3版、2016)244頁はウを挙げている。したがって、③はウ。

 

第4問 4 (西田・前掲347頁)

第5問 2,2,1,2,2

アが×であることにつき、最決昭和51年3月23日刑集30巻2号229頁。判例は、法秩序全体の見地から許容されるべきものであることが必要としているため、「成立し得ない」ということはない。

イが×であることにつき、いわゆる加持祈祷事件。(最判昭和38年5月15日刑集17巻4号302頁)

ウが○であることにつき、最判昭和50年4月3日刑集29巻4号132頁。

エが×であることにつき、最判昭和30年11月11日刑集9巻12号2438頁

オが×であることにつき、いわゆる西山事件。(最決昭和53年5月31日刑集32巻3号457頁)

第6問 2

アが○であることにつき、最決昭和33年9月30日刑集12巻13号3180頁。

イが×であることにつき、197条2項。事前収賄罪。

ウが×であることにつき、最判昭和28年10月27日刑集7巻10号1971頁。

エが○であることにつき、井田・前掲590頁。

オが×であることにつき、最決昭和58年3月25日刑集37巻2号170頁。

第7問 3

第8問 4

イが×であることにつき、最決平成21年6月29日刑集63巻5号461頁参照。

オが×であることにつき、西田・前掲143頁参照。

なお、理論的な説明ではないですが、アとオの肢は、平成25年司法試験でもほぼ同じ問題が出題されており、司法試験委員会発表の正解によれば、いずれも×です。したがって、4が正解であることは間違いないといって良いでしょう。

第9問 2,4

1は26条1号、2は57条、14条2項、ウは28条、エは54条1項、オは42条2項

第10問 2,3

第11問 4

心神喪失心神耗弱と認められるためには、精神の障害が必要であると解されている。山口厚『刑法総論』(有斐閣、第3版、2016)272頁。

第12問 5

5が×であることにつき、最決昭和42年12月21日刑集21巻10号1453頁。

第13問 3,4

第14問 4

加重逃走罪の着手時期は、「逃走を目的として」「その手段としての暴行・脅迫が開始されたこと」であることにつき、東京高判昭和54年4月24日刑月11巻4号303頁。

第15問 2

第16問 2,1,1,2,2

アが×であることにつき、115条。

イが○であることにつき、前掲・西田299頁。

ウが○であることにつき、前掲・西田304頁。生じた公共の危険が1個である場合、1個の現住建造物等放火罪が成立する。

エが×であることにつき、最決平成15年4月14日刑集57巻4号445頁

オが×であることにつき、前掲・井田378頁。

第17問 5

最決平成13年10月25日刑集55巻6号519頁をモデルにした事案であることは明らかで、同事案において、判例は、背後者の母親について強盗罪の共同正犯の成立を肯定しています。

その上で、判例最判昭和24年5月28日刑集3巻6号873頁)は、いわゆる機会説を採っていると解されるため、「Aが激しく振り払った行為」が強盗の機会になされた暴行であることは明らかである以上、本件では強盗致傷罪の共同正犯が成立することになります。

第18問 1

1が○であることにつき、大判昭和12年3月17日刑集16巻365頁。

第19問 2

第20問 1,1,2,2,2

アについて。甲とAは売買契約を結んでおり、かつ、Aが既に代金全額を支払っていることから、刑法上保護に値する所有権が存在するといえること等から、本件土地は「自己の占有する他人の物」といえ、本件行為に横領罪が成立します。そして、実弟のAとは別居していることから、244条1項の適用はなく、同条2項が適用されます。したがってアは○です。

イが○であることにつき、最大判平成15年4月23日刑集57巻4号467頁。

ウが×であることにつき、最決平成24年10月25日刑集66巻10号990頁。

エが×であることにつき、大判昭和3年10月29日刑集7巻709頁。

オが×であることにつき、最判昭和31年6月26日刑集10巻6号874頁。

刑事訴訟法の入門書・基本書・演習書

入門書・基本書

三井誠=酒巻匡『入門刑事手続法』(有斐閣、第7版、2017)

 初学者向き:★★☆☆☆

 司法試験対策向き:★★☆☆☆

 研究用資料として:★☆☆☆☆

 

 刑事手続全体の流れをつかむための本。刑事手続の流れが平易な言葉で書かれていると共に、頁の左側に条文番号が記載されたものとなっている。論点に対する勉強はどうでもいい、刑事手続の流れだけを知りたい、という方は本書を手にとると良いであろう。

 ただ……正直言って、記述が無味乾燥であり、読んでいて退屈である。「入門書」と銘打っているため、論点に関する記述が全くないことがその要因だと思われる。また、初学者からしても、ひたすら制度だけを解説されたところで眠くなることは必至であろう。

 内容自体は非常に正確であるため、例えば、予備試験の口述対策として、ひと通り手続きの流れを復習したい、という方には最適だろう。他方で、それ以外の方は手を出す必要はないのではないだろうか。

 やはり、司法試験を見据えた場合、論点に対する理解は絶対に必要である。そうだとすれば、まずは入門書から、ということで本書に手を出すよりも、どうせいつかは勉強しなければならないのだから、他の基本書等に手を出したほうが良いのではないだろうか。

緑大輔『刑事訴訟法入門』(日本評論社、第2版、2017)

 初学者向き:★☆☆☆☆

 司法試験対策向き:★★★☆☆

 研究用資料として:★★★☆☆

 

 個人的には非常に好きな本。第一に、通説・判例の説明がきちんとなされており、他の基本書ではあまり触れられていない、「かゆいところに手が届く」ところが良い。例えば、職務質問とそれに引き続く留め置きの場面を取り上げ、判例警職法の適用領域と刑訴法の適用領域とを使い分けているという指摘や、あるいは、訴因変更の要否における「審判対象の画定に必要な事実」とは何かについての解説等は、非常に参考となった。一度刑事訴訟法を勉強したことがある人でも、本書を読めば新たな発見ができると思われる。

 第二に、緑教授の自説もきちんと述べられていることから、研究用資料としても参考となり、非常に興味深い。逮捕に伴う無令状捜索・差押えについて定めた220条についての緑教授の(独自の)見解は、とても面白く読むことができ、私は緑教授の論文にまで手を出してしまったほどである。(緑大輔「逮捕に伴う対物的強制処分―緊急処分説の展開」浅田和茂ほか編『人権の刑事法学―村井敏邦先生古稀記念論文集』(日本評論社、2011)234頁以下。)

 とはいえ、司法試験対策といった観点から見た場合、読めば非常に勉強になるものの、「答案にそのまま活かせる表現」は少なく、論文対策に直結するわけではない。この点で、★3つと評価した。

 そして、司法試験対策としてそれなりに役立つと指摘したことからも分かるように、同書は初学者には難解な分野まで幅広く説明されているため、初学者では面食らってしまうであろう。初学者が読むべき本ではなく、刑事訴訟法を勉強した人が最後の総仕上げとして読む本だと感じている。

川出敏裕『判例講座 刑事訴訟法〔捜査・証拠篇〕』

 初学者向き:★★★★☆

 司法試験対策向き:★★★☆☆

 研究用資料として:★★★☆☆

 

 判例が非常に丁寧に解説されているため、判例に対する理解が深まることは間違いない。司法試験の刑事訴訟法科目において、判例理解の重要性は論を待たないところであり、刑事訴訟法学の非常に有力な学者の一人である川出先生の判例理解を知っておけば、司法試験に役立つことは間違いないだろう。

 他方で、同書は判例解説という点で一貫しているため、答案に活かしやすいかと言われると若干難しい。つまり、判例を導く理由付けを本書で知る、といったことはあまりないのである。

 そうすると、当てはめがどうも苦手だ、といった方や、あまり刑事訴訟法判例を読んだことがない、という方向けの本ということになろうか。

 なお、この本が判例解説の参考となることはもちろんであるが、川出先生の自説があまり出ていないため、その点で研究用資料としては若干向かないといえる。川出先生の自説を知りたければ、川出先生の論文等を精読するしかないということか。

宇藤崇=松田岳士=堀江慎司『刑事訴訟法(LEGAL QUEST)』(有斐閣、2012)

 初学者向き:★★★★☆

 司法試験対策向き:★★★★☆

 研究用資料として:★★☆☆☆

 

 基礎から応用まで、丁寧に解説されている。初学者から司法試験受験生まで、幅広くオススメできる本である。判例の引用数も多い上、論点の理由付けもきちんとなされており、答案に活かせる表現が多い。堀江先生執筆の証拠法分野は非常に分かりやすく、ここを読むだけでも勉強になるだろう。

 惜しい点は、「公訴事実の同一性」についての記述が分かりにくいという点である。特に初学者の方にとっては難解であろう。この部分については理解できなくてもやむを得ないのではないだろうか。

 なお、著者の自説は最小限に抑えられているため、研究用資料にはあまり向かない。また、学説の引用もないため、この点でも研究用資料としては用いにくい。

酒巻匡『刑事訴訟法』(有斐閣、2015)

 初学者向き:★☆☆☆☆

 司法試験対策向き:★★★★☆

 研究用資料として:★★★★☆

 

 酒巻先生の見解で一色に染められた本である。酒巻説と心中する気はない…という方も、心配する必要はない。酒巻先生の見解といえども通説と重なっている部分もあるし、また、通説ではないにせよ、酒巻説は有力説であることがほとんどであるため、酒巻先生の見解をとったがために試験で点が取れない、ということはあり得ないからである。したがって、司法試験対策本としては有用である。理由付けがコンパクトに書かれているため、答案にも活かしやすい。

 ただ、この本は、ひと通り刑事訴訟法を勉強し、かつ、刑事訴訟法がそこそこ得意な人向けの「司法試験対策本」であろう。刑事訴訟法があまり得意でない、という人は、リーガルクエストを基本書に据えるべきだと考える。その理由は、冒頭で述べたとおり、「酒巻先生の見解で一色に染められた本」だからである。すなわち、酒巻先生以外の他説の紹介がほとんどないため、刑事訴訟法が苦手な方がいきなり本書を読むと、混乱してしまうかもしれないのである。基礎はひと通り分かった、という方が本書を読めば、答案に活かせる点が多々見つかり、「一歩先」へ進むことができるであろう。

 なお、酒巻先生は刑事訴訟法学における非常に有力な学者の一人であるため、研究用資料として有用であることは異論がない。

池田修=前田雅英刑事訴訟法講義』(東京大学出版会、第5版、2014)

 初学者向き:★★☆☆☆

 司法試験対策向き:★☆☆☆☆

 研究用資料として:★★☆☆☆

 

 申し訳ないが、この本では司法試験には太刀打ち出来ないであろう。理由付けが浅く、理論的な説明に乏しい。それだけでなく、「結局どの説をとっているのか」が不明なことも多い。いずれにせよ、答案に活かしにくい本であることは間違いない。

上口裕『刑事訴訟法』(成文堂、第4版、2015)

 初学者向き:★★★★☆

 司法試験対策向き:★★☆☆☆

 研究用資料として:★★★☆☆

 

 同書は割と受験生のシェアを獲得しているらしい。確かに、論点はきちんと網羅されている上、基礎から叙述するスタイルをとっているため、全体的に分かりやすいからであろう。初学者が読んでもついていける本であると私も思う。

 ただ、司法試験対策向きかと言われると、若干疑問符が残る。というのも、上口先生は独自説をとっていることもそれなりにあるのだが、それが独自説であることが本書を読むだけではよく分からないからである。

 そうは言っても、上口先生の見解が全くあり得ないという訳でもなく、受験生のシェアがそれなりにあることを踏まえると、★2つというのは辛口すぎる気もする。上口先生の本だけでも合格することは十分可能であろう。

田口守一『刑事訴訟法』(弘文堂、第7版、2017)

 初学者向き:★★★☆☆

 司法試験対策向き:★★☆☆☆

 研究用資料として:★★★☆☆

 

 某予備校のテキストの下地になっている本という噂がある(本当かどうかは知りません)。細かい論点も割と触れられており、論点の網羅性は問題ないため、基本書として用いることは十分可能だと思われる。

 もっとも、全体的に記述があっさりしており、理由付けがあまり説得的でないことも多く、「規範は分かるがそれを導く理由がよく分からない」ということが多々ある本だと個人的には感じている。学習が進んだ者からすると、物足りない本になってしまうだろう。

 なお、「公訴事実の同一性」の判断基準について本書は非常に特異な見解をとっているが、それが本書の中では明示されていない(正直言って、あたかも通説であるかのように書かれている)点が少々怖いことを付言しておく。

演習書

古江賴隆『事例演習刑事訴訟法』(有斐閣、第2版、2015)

 初学者向き:★☆☆☆☆

 司法試験対策向き:★★★★★

 研究用資料として:★★★☆☆

 

 もはやコメント不要の「司法試験対策の王道」。予備校本だけで試験を乗り切る!という人であっても、本書だけは是非手にとってほしい。

 演習書を名乗っているが、実際は論点解説本と言って良い。最近の学説・判例の理解を前提にしており(引用・脚注もしっかりしている。)、既存の論点知識を司法試験レベルにまで一気に引き上げてくれる。一度刑事訴訟法を勉強したことのある人がこの本を読んで、「何も学ぶことがなかった」ということはあり得ないだろう。必ずや、何かしらの勘違いに気付くに違いない。

 なお、同書のコラムは非常に有用で、初学者が抱く疑問がQ&A形式で書かれている。最初から最後まで、学習者に徹底して配慮がなされている本である。

 古江先生の自説もそれなりには述べられているので、研究用資料としてもそれなりには役立つ。もっとも、学習用の教材という色彩が強いという点から、★3つとした。

佐々木正輝=猪俣尚人『捜査法演習』(立花書房、2008)

 初学者向き:★★☆☆☆

 司法試験対策向き:★★★☆☆

 研究用資料として:★★☆☆☆

 

 元検察官の著者二人による演習書。実務の立場で徹底して答案を書きたい、という方は本書を手にとると良いだろう。解説は非常に丁寧(ただ、逆に言えば若干解説が冗長だと個人的には思った。)で、当てはめ部分まで解説されている点は学習者にとってありがたい。また、マニアックな論点まできちんと紹介されている点も特徴的である。

 もっとも、私が司法試験対策として★3つとした理由は、やはり実務に偏りすぎている感があり、読み進めていく中で、理由付けもあまり説得的でないと思うところがそれなりにあったからである。(とはいえ、私ごときが違和感を覚えているとしても、本書をベースに司法試験の答案を書いてバツにされるわけもないので、特に気にするところでもないとは自覚している。ただ単に私は、自分自身が納得できるものでないとと答案に書きたくない、という性分だったがために、本書が合わなかったというだけである。)

 実務ベースで答案を書きたい!という方にオススメの一冊である。なお、あくまで演習書なので、研究用資料としてはあまり向かないであろう。

 

 

「童貞をいじるのはセクハラ」から考える、「不快な思いをしない自由」の保護

1 問題の所在

  「童貞いじりはセクハラか?」という話題が一時期持ち上がった。はあちゅう氏が

  などと発言し、「下ネタ」と「セクハラ」の境界を巡って、ネット上の一部では論争になっているように見えた。はあちゅう氏はその後、童貞いじりについて謝罪(しかし後に撤回)したが、以下のことも述べた。

  長いので全文読みたい方はリンクを貼るのでご参照ください。

https://twitter.com/ha_chu/status/943652551164968960

https://twitter.com/ha_chu/status/943652628134641665

https://twitter.com/ha_chu/status/943652703007211520

https://twitter.com/ha_chu/status/943652812516311040

 私は、はあちゅう氏の冒頭の発言の一部には共感していた。すなわち、「明るく楽しく笑えるものが自粛になるのは嫌だな」という感覚である。私自身、昨今の社会は違法行為に対して峻烈になっていると感じており、社会の許容性が低下しているのならば残念だなと思っていた。

 他方で、私ははあちゅう氏の以下の発言については首肯しがたいところがあった。
 それは、はあちゅう氏は、男性による「おっぱい」という発言を「嫌だ」と思っており、そのような行為はダメであろうという認識の下、「この際、いろいろな人の『それは嫌』っていうラインを私も学びたいと思っています」(https://twitter.com/ha_chu/status/943652812516311040より引用。)

との発言である。

 なるほど、セクハラ問題とは結局、他者の「それは嫌」を徹底的に排除し、誰もが不快な思いをしない社会を皆で創り上げよう、という問題提起なのか。

 これだけ聞くと、多くの人は、「そうだそうだ。皆、他者への思いやりを持とうよ。」と賛同の意を示すのかもしれない。確かに、誰もが不快な思いをしない社会は素晴らしい。しかし、現実にはそれは不可能だと考える。だからこそ、セクハラ問題を通じて、「他者が嫌がる行為は一切するな」という規範を与えようとするならば、私は反対せざるを得ない。そこで、「不快な思いをしない自由」までは保護すべきではないとする意見を本稿で述べていきたい。

2 「お前の存在・発言が不快だ」と言われることへの恐れ

 何故私が「不快な思いをしない自由」までは保護すべきではない、というのか。それは、「他者に不快な思いをさせること」が全て悪いことだという価値判断が広がった場合、私自身も含めて誰しもが、社会から排除される、唾棄すべき人間であると認定されてしまうのではないか、という懸念があるからだ。

 もう少し具体的にいえば、人間誰しも、その人の発言それ自体で、他者を不快にさせてしまう恐れがあるからである。

 いやいや何を卑屈になっているんだ…とお思いの方も多いであろう。しかし、実際のところ、個々人はそれぞれ異なった価値観を持っており、イラッとする(不快に思う)ポイントはそれぞれ全く異なっているのは間違いないだろう。

 例えば、排外主義的な思想を持っているお父さんからすれば、「韓国旅行に行きたい」とか「韓国のアーティストの大ファン」と言う娘の発言は気に食わないもの(不快な言動)であるのに対し、その娘がライブ友達との会話の中で上記のことを述べれば、とても楽しい発言になるだろう。

 あるいは、私は死刑廃止論者なので、死刑に賛成するようなネットの書き込みを見ると若干の憤り?モヤモヤ?を覚えてしまうが、そんな私が「死刑に賛成するような書き込みを俺に見せるな!」と喚き、「他者(=私)が不快に思う発言はすべきではないです。セクハラと同じです。死刑に賛成するような書き込みをすることはよくないことです。」などと大真面目に言っていたら、さすがにそれはおかしいな主張ではないか、と思う人が大半であろう。私自身も、もちろん妥当ではないと考えている。

 最初に述べた「童貞いじり」もそうだ。はあちゅう氏の言うとおり、童貞をネタにして円滑なコミュニケーションをとっている人もいるであろう。他方で、童貞であることを恥じており、誰にも触れてほしくない人もいる。地震の際の「おっぱい」もそう。私自身はこれを品がない発言だとは思いつつも、不快だとまでは思わない。しかし、はあちゅう氏を含む女性の一部の人(勿論男性の中にもいるとは思うが。)からすれば、「とても不快」な発言なのである。

 こうしてみると、私としてはやはり、誰もが不快な思いをしない社会は創れないと感じているし、そんな社会を創り上げようとすれば、「何も言えない」、息苦しい社会になってしまうのではないかと危惧している(だからといって他者を傷つけても構わないとか、セクハラ問題を全然気にしないとか、そんなことは思っていません。念のため。)。出来るだけ不快な思いをしない人が多くなれば良いなと私は信じている。それでも、徹底した不快な言動の排除には、躊躇を覚えてしまうのである。

 したがって、「セクハラ」とは「他者が不快な思いをする言動」である、ゆえに、「他者が不快な思いをする言動は一切しないようにしましょう」という行為規範は避けるべきであると私は考えている。

3 「他者に対して寛容な社会」へ

 この世には不快なものが溢れている。一部の人からすれば、私の存在それ自体だって「不快なもの」かもしれない。それくらい、社会には不快なものが溢れている。そうだとしても、我々はこの社会で共生していかなければならない。私自身は、共生を図るべく、「どうにも気に食わない他者の存在を許すことで、自分自身の存在も認めてもらい、自分自身が生きていても良いということにしてほしい」と考えている。他者に対して寛容な社会は、日本国憲法の根本的な価値と称される、「個人の尊厳」が保護された社会であり、誰もが個人として尊重される社会は望ましいのではないだろうか。

 私がこの問題について思いを馳せたとき、パッと思い浮かんだのがこの判例の判示である。

 信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。 (自衛官護国神社合祀事件 最判昭和63年6月1日民集42巻5号277頁)

  (この判示に批判があることは重々承知であるが、)我々自身が自由な言動を確保するためには、他者から受ける多少の不快な言動にも寛容でなければならない、ということが示唆されないであろうか。

4 試論:特定の個人の身体的特徴を揶揄する発言の禁止?

 仮に、「他者が不快な思いをする言動は一切しないようにしましょう」という行為規範が不当であるとしても、セクハラ問題が野放しになって良いはずはない。自由な社会の保護と、個人が不快な思いをする発言の除去との調和を図らねければならない。では、この観点から、「セクハラ」をいかに定義すべきなのでしょうか。

 私は先ほど、個人の尊重がなされる社会を守るために、「他者が不快な思いをする言動は一切しないようにしましょう」という行為規範は望ましくないと述べた。
 そうだとすれば、個人の尊重を否定すべき言動については、セクハラ等と称して非難しても差し支えないのではないだろうか。典型例が、個人の身体的特徴である。個人の身体的特徴はまさに「その人そのもの」であり、これの否定はその人個人の否定に他ならない。また、義務のないことの強要も、あたかも個人を道具として利用するような振る舞いであり、個人の否定に他ならないといえよう。

 そこで、特定の個人の身体的特徴を揶揄する発言・義務のないことを強要する発言については毅然と非難をし、夏休み中の女性の過ごし方を聞いたり、彼氏いるの?と聞いたりといった、プライベートへの干渉についてはギリギリ許容し(とはいえ刑罰法規に触れるほどになった場合には許されないのは当然である。)、調和を図ってみてはどうかと考えている。
 この辺りの「定義」については、いつか腰を据えて考えないといけないなぁとぼんやりと考えている。