罪刑法定主義の感覚に欠ける

メンヘラを救う方法に関する一考察や、法律に関する話を中心に、様々な話題を提供します。

「童貞をいじるのはセクハラ」から考える、「不快な思いをしない自由」の保護

1 問題の所在

  「童貞いじりはセクハラか?」という話題が一時期持ち上がった。はあちゅう氏が

  などと発言し、「下ネタ」と「セクハラ」の境界を巡って、ネット上の一部では論争になっているように見えた。はあちゅう氏はその後、童貞いじりについて謝罪(しかし後に撤回)したが、以下のことも述べた。

  長いので全文読みたい方はリンクを貼るのでご参照ください。

https://twitter.com/ha_chu/status/943652551164968960

https://twitter.com/ha_chu/status/943652628134641665

https://twitter.com/ha_chu/status/943652703007211520

https://twitter.com/ha_chu/status/943652812516311040

 私は、はあちゅう氏の冒頭の発言の一部には共感していた。すなわち、「明るく楽しく笑えるものが自粛になるのは嫌だな」という感覚である。私自身、昨今の社会は違法行為に対して峻烈になっていると感じており、社会の許容性が低下しているのならば残念だなと思っていた(この件については稿を改めて述べます。)。

 他方で、私ははあちゅう氏の以下の発言については首肯しがたいところがあった。それは、はあちゅう氏は男性による「おっぱい」という発言を「嫌だ」と思っていたのであり、そのような行為はダメであろうという認識の下、「この際、いろいろな人の『それは嫌』っていうラインを私も学びたいと思っています」(https://twitter.com/ha_chu/status/943652812516311040より引用。)

との発言である。

 なるほど、セクハラ問題とは結局、他者の「それは嫌」を徹底的に排除し、誰もが不快な思いをしない社会を皆で創り上げよう、という問題提起なのか。

 これだけ聞くと、多くの人は、「そうだそうだ。皆、他者への思いやりを持とうよ。」と賛同の意を示すのかもしれない。確かに、誰もが不快な思いをしない社会は素晴らしい。可能なら、私もそれを目指したいと思っている。しかし、現実にはそれは不可能だと考える。だからこそ、セクハラ問題を通じて、「他者が嫌がる行為は一切するな」という規範を与えようとするならば、私は反対せざるを得ない。そこで、私は批判覚悟で、「不快な思いをしない自由」までは保護すべきではないとする意見を本稿で述べていきたい。

2 「お前の存在・発言が不快だ」と言われることへの恐れ

 何故私が「不快な思いをしない自由」までは保護すべきではない、というのか。それは、「他者に不快な思いをさせること」が全て悪いことだという価値判断が広がった場合、私自身が社会から排除される、唾棄すべき人間であると認定されるのではないか、という懸念があるからだ。

 SNSでのインスタント・コミュニケーション全盛のこの時代にダラダラと長文をブログで書いてしまうことからも明らかなように、私は決して、誰からも好かれるような人間ではない。むしろ、初対面の印象は悪く、私と話して不快な思いをしたことのある人はそれなりにいるであろうと察している。(私はつい、美女を前にすると劣等感に苛まれ、「どうせ俺なんて」と卑屈な発言を連発してしまう癖がある。これによって不快な思いをした美女は数知れないだろう。心から申し訳ないと思っている。)

 だから、「他者に不快な思いをさせるな」と言われると、私は何も言えなくなってしまう。なぜなら、私自身の発言それ自体で、他者を不快にさせる恐れがあるからである。

 いやいや何を卑屈になっているんだ…とお思いの方も多いであろう。確かに私の例は極端かもしれないが、実際のところ、個々人はそれぞれ異なった価値観を持っており、イラッとする(不快に思う)ポイントはそれぞれ全く異なっているのは間違いないだろう。

 例えば、排外主義的な思想を持っているお父さんからすれば、「韓国旅行に行きたい」とか「韓国のアーティストの大ファン」と言う娘の発言は気に食わないもの(不快な言動)であるのに対し、その娘がライブ友達との会話の中で上記のことを述べれば、とても楽しい発言になるだろう。

 あるいは、私は死刑廃止論者なので、死刑に賛成するようなネットの書き込みを見ると多少の憤りを覚えてしまうが、そんな私が「死刑に賛成するような書き込みを俺に見せるな!!」と喚いたのに対し、「他者が不快に思う発言はすべきではない。セクハラと同じだ。死刑に賛成するような書き込みをしたお前が悪い。」などと言われてしまったら、それはおかしいんじゃないか、と思う人が大半であろう。私自身も、表現の自由の過度な制約になり、妥当ではないと考える。

 最初に述べた「童貞いじり」もそうだ。はあちゅう氏の言うとおり、童貞をネタにして円滑なコミュニケーションをとっている人もいるであろう。他方で、童貞であることを恥じており、誰にも触れてほしくない人もいる。地震の際の「おっぱい」もそう。私自身はこれを品がない発言だとは思いつつも、不快だとまでは思わない。しかし、はあちゅう氏を含む女性の一部の人(勿論男性の中にもいるとは思うが。)からすれば、「とても不快」な発言なのである。

 こうしてみると、私としてはやはり、誰もが不快な思いをしない社会は創れないと感じているし、そんな社会を創り上げようとすれば、「何も言えない」、息苦しい社会になってしまうのではないかと危惧している(だからといって他者を傷つけても構わないとか、セクハラ問題を全然気にしないとか、そんなことは思っていません。念のため。)。出来るだけ不快な思いをしない人が多くなれば良いなと私は信じている。それでも、徹底した不快な言動の排除には、躊躇を覚えてしまうのである。

 したがって、「セクハラ」とは「他者が不快な思いをする言動」である、ゆえに、「他者が不快な思いをする言動は一切しないようにしましょう」という行為規範は避けるべきであると私は考えている。

3 「他者に対して寛容な社会」へ

 この世には不快なものが溢れている。一部の人からすれば、私の存在それ自体だって「不快なもの」であろう。それくらい、社会には不快なものが溢れている。そうだとしても、我々はこの社会で共生していかなければならない。私自身は、共生を図るべく、「どうにも気に食わない他者の存在を許すことで、私自身の存在も認めて欲しい、私自身が生きていても良いということにして欲しい」と考えている。他者に対して寛容な社会は、日本国憲法の根本的な価値と称される、「個人の尊厳」が保護された社会であり、誰もが個人として尊重される社会は望ましいのではないだろうか。

 私がこの問題について思いを馳せたとき、パッと思い浮かんだのがこの判例の判示である。

 信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。 (自衛官護国神社合祀事件 最判昭和63年6月1日民集42巻5号277頁)

  (この判示に批判があることは重々承知であるが、)我々自身が自由な言動を確保するためには、他者から受ける多少の不快な言動にも寛容でなければならない、ということが示唆されないであろうか。

4 試論:特定の個人の身体的特徴を揶揄する発言の禁止?

 仮に、「他者が不快な思いをする言動は一切しないようにしましょう」という行為規範が不当であるとしても、セクハラ問題が野放しになって良いはずはない。自由な社会の保護と、個人が不快な思いをする発言の除去との調和を図らねければならない。では、この観点から、「セクハラ」をいかに定義すべきか。

 私は先ほど、個人の尊重がなされる社会を守るために、「他者が不快な思いをする言動は一切しないようにしましょう」という行為規範は望ましくないと述べた。そうだとすれば、個人の尊重を否定すべき言動については、セクハラ等と称して非難しても差し支えないのではないだろうか。典型例が、個人の身体的特徴である。個人の身体的特徴はまさに「その人そのもの」であり、これの否定はその人個人の否定に他ならない。また、義務のないことの強要も、あたかも個人を道具として利用するような振る舞いであり、個人の否定に他ならないといえよう。

 そこで、特定の個人の身体的特徴を揶揄する発言・義務のないことを強要する発言については毅然と非難をし、夏休み中の女性の過ごし方を聞いたり、彼氏いるの?と聞いたりといった、プライベートへの干渉についてはギリギリ許容し(とはいえ刑罰法規に触れるほどになった場合には許されないのは当然である。)、調和を図ってみてはどうかと考えている。